1982年12月 MAJP(現1100kai-head)...原付免許取得
1983年1月 XJR(現1100kai-J班班長)...原付免許取得
1983年8月 MAJP...自動2輪中型限定免許取得 USCB(現1100kai-H班班長)... 原付免許取得
1984年8月 USCB...自動2輪中型限定免許取得
1984年3月〜8月 MAJP...自動2輪限定解除審査4回失敗
*当時、大阪府の自動2輪限定解除審査は、一次試験と二次試験に分かれていた ....さらに、合格率は3%ぐらいで 30回受験しても合格できればすごいと思われて(?)いた。
1985年〜1986年 MAJP...自動2輪限定解除審査8回失敗 夏休みや冬休みを利用して挑戦するがあえなく敗退....1975-1980年代末頃まで自動2輪限定解除審査は現在と比べてかなり困難なものでした....見苦しい言い訳....そのあと、MAJPは受験が面倒になり、大型2輪をあきらめる。
*1988年頃、一次試験と二次試験が、連続化....つまり、1回の乗車降車で済むようになった。その後、門真試験場が工事のため、自動2輪限定解除審査は、光明池試験場へ。
1993年頃 XJR...自動2輪中型限定免許取得
1994年6月頃 政府が大型2輪の教習制度解禁を発表、MAJPは 教習を待つか、飛び込みを今すぐやるか1箇月悩む。...理由:いくら教習制が解禁となっても「750限定免許」になるかもしれないといううわさがあり、それなら、’94の時点で限定解除してしまえばよいとの結論に達するまで1箇月かかった。
1994年7月頃 MAJP...極秘に練習をはじめる。それまで、敗退ばかりだったので、家族に笑われるのをおそれて、一部を除き秘密にしていた。
1994年9月中旬 MAJP...大阪府光明池自動車試験場で自動2輪限定解除審査1回目の受験。 課題はほとんどクリアしたものの、一時停止の表示を見落とし、試験中止。
1994年10月初旬 自動2輪限定解除審査2回目の受験、完走しいろいろ注意されるが、合格。通算14回目にして、10年がかり?でやっと免許を手に入れた。
1995年頃 XJRが大阪府光明池試験場で2度限定解除に挑戦するも、あえなく敗退。
1995年〜1996年 MAJPがUSCB、XJRに限定解除受験の話を薦める。合格すれば、大型2輪のサークルを結成することを決める。...Eleven-kaiプロジェクトの始動。
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